Johannes Linder & Jakob Wiechmann
コレージュ・ド・フランスで文学理論を教えるアントワーヌ・コンパニョンは、文学だけでなく芸術を楽しみ、また加担しようとする全ての読者にとって重要な理論家である。
このページでは、彼の「文体」論と、「作者」論の二つについて記録しておく。
(同じ著者のボルヘス論についてのページはこちら)
○ 「文体」論
アリストテレスは『弁論術』の中で、「ある語を他の語で置き換えることが、より高尚な形式を文体に与える」と述べている。
これを受けて、コンパニョンは以下のように述べている。
「一方に、本来の語に密着した、明快ないし低級な文体があり、他方には、偏差と置き換えを活用して、"言語に奇異な特異性を賦与する"エレガントな文体がある」
彼によれば、文体原理とは以下の二つで要約される。
� 偏差(既成の用語、表現からの置き換え)
� 装飾(衣装、化粧、戯れ、ダンス)
この二つはアリストテレス以来の修辞学における基礎である。
つまり、目下ここで文体=装飾のための偏差という定式が成立する。
判り易くいえば、「今日、雨だったんだけどさ、会いに行ったよ」という表現があるとして、この一つの文章をいかに美しく、或いはいかに多様に変換できるか、といった技術と文体は不可分離的である。
文体の本質はこのように定義されるが、アリストテレスは文体を三種類に分けていた。
� スティルス・フミルス(単純な文体)
� スティルス・メディオクリス(節度ある文体)
� スティルス・グラウィス(高尚かつ崇高な文体)
しかし、これはあまりにも曖昧な分類であって、多様な文体にこの三種類では対応できない。
修辞学(レトリック)の伝統は、著者によれば『弁論術』以後途絶えており、それが文体論(スティリスティック)として蘇生したのは19世紀においてである。
文体を装飾性として認識した代表的な理論家にはリファテールがいる。
「文体とは、意味を変質させることなく、言語活動によって伝達される情報に付加される強調(表現上の、感情的な、美学的な)である」リファテール
著者は文体における諸説を様々紹介しているが、結論が重要である。
コンパニョンは以下のようにまとめている。
クロス"痛みを通じて"イエス·キリスト
「とてもよく似たことをいうのに極めて異なる言い方があり、また逆に、極めて雑多なことをいうのにとても似た言い方がある」
「言語体系は現実には存在しない。パロールと文体、偏差とヴァリエーションだけが言語に関する現実である」
これはしかし、ほとんどの人が常識的に理解していることを理論的なキータームで換言した程度に過ぎない。
むしろ、以下の短いテクストを記憶しておこう。
「文体論においては、個人的文体のみが存在する」
○ 「作者」論
コンパニョンの白眉は、やはり「作者」論だと私は考えている。
周知の通り、ヌーヴェル・クリティックの出発点は、バルトの「作者の死」であった。
バルトのいう「作者」を復習しておこう。
・ 個人主義的「人格」
・ 資本主義的イデオロギーを体現する
・ 近代において出現
・ 主体性の特徴としては「固有名」を有する
しかし、バルトは1968年に「作者」は死んだと宣言した。
「作者の死」の概念の特徴は以下である。
・ 非人称的で名前のない言語活動
・ テクストは全て「引用」の織物に過ぎない
・ 読者が作品の中からテクストを「キュレーション」することで意味(=解釈)が成立する
・ エクリチュールそれ自体には、始まりも終わりもない(起承転結など原理的には存在し得ない)
ゆえに、現代文学はこうした概念の延長線上で把握せねばならない。
一言でマラルメが美しく表現している。
「発話者として詩人が消滅し、言葉に主導権を譲り渡す」マラルメ
それまで、作者は一つの固有名を持った主体であった。
彼女には物語が存在した。
だが、作者の死後、多様なテクストのネットワークの網目状の結節点としてしか、彼女は存在し得ない。
やはり「間テクスト性」(クリステヴァ)は「作者の死」の本質である。
減量のための祈り
「作者の死」後の「作者」を考える上で、著者はアウグスティヌスの『キリスト教教義』における霊肉の概念を再現前させている。
すなわち、肉(テクストの書記)よりも、霊(作者の意志)に重要性を見出す考え方の再検討である。
肉より霊を神聖視する神学的来歴はパウロにまで遡れる。
ギリシア語でいえば、これはレトン(書記)と、ディアノイア(意志)の差異として表現される。
或いは、グランマとプネウマとも呼ばれる。
結論から先にいえば、著者は文学におけるレトンに対するディアノイアの優越を主張している。
その上で、J.サールがエクリチュールを「歩行」として認識していた点に言及する。
「足を動かし、足を持ち上げ、筋肉を緊張させる――これら一連の行動は前もって計画されたものではないが、だからといって意図がないわけではない。我々は歩く時、それらの行動をする意図を持っている。歩こうとする我々の意図は、歩行が前提とする一連の細部を含んでいる」コンパニョン
何がいいたいのか?
彼は文学とは「テニス」であると主張したいのだ。
「書く行為は、このようなたとえが許されるなら、チェスをするのとは違う。全ての動きが計算し尽くされた活動ではないのだ。それはむしろ、テニスをするようなものである。このスポーツでは、細部の動きは予見不可能だが、相手が最も打ち返しにくいようにボールをネットの向こう側に打ち込むという主たる意図は確固たるものがある」
あらかじめ全て管理されたプロット、計画など存在しない。
書く行為は計画主義的なものではない。
むしろそれは偶然によって書き始められ、最初のページで考えていたことが50ページ先で否定される――無論、これは文学においてである。
チェスではなくテニスに近いという考え方は記憶に値する。
それは極言すれば、一種のオートマティズムによる作用を容認しているということだ。
リゾーム、偶然性、言語遊戯、プロットの攪拌、規範からの逸脱……。
ニーチェ的にいえば、これらはとりもなおさず「ディオニュソス的舞踏」としてのエクリチュールの肯定である。
「意図(ディアノイア)とは、作者が記した一連の語にあって、用いた語(レトン)によって作者がいわんとしたことに他ならない。作者の計画や動機、ある一定の解釈のためのテクストの首尾一貫性などは、つまるところこの意図の指標に過ぎない」
聖書のパニック発作
著者曰く、テクストとは作者のディアノイアである。
この基本はとても大切だ。
表現の奥に存在する作者のメッセージ、意図。
ただし、これはあくまでもコンパニョンによる規範の生産であり、円城塔の『後藤さんのこと』のように、レトンが優越しつつディアノイアを補完するような作品も存在している。
むしろ、レトンの先鋭化は文体の本質である「衣装」、「化粧」を追究することになるので、これも一つの重要な戦略であるといえる。
作品の「首尾一貫性」について、もう少し読んでみよう。
クラデニウスは以下のように述べている。
「ものを書く人は、一息に書いてしまうのではなく、様々に異なる時期に執筆するため、その間に意見が変わっている可能性が高い。そのような違いを意識しないでひとりの作者の比較断章を全て一律に扱うことはできない」
「文学作品から哲学概論と同等の首尾一貫性は期待できない」
ボードレールは、「猫」という語で「女性」を表現していたが、彼が「猫」と書けば即座に「女性」を意味するわけではない。
象徴的解釈を好む理論家はこの手のミスリーディングをしばしば引き起こすものである。
続いて、「比較断章法」についての著者の言及を読んでみよう。
これは、例えばある本で理解し辛い箇所が出てきた時、別の箇所によって補完的に元の文を究明する操作で、読書好きの人間なら誰もが当たり前のように常にやっている頭の運動である。
著者はこれに「文学」の本質を見出していて、以下のように述べている。
「あるテクストを理解し、解釈するとは、常に必然的に同一のものから差異を生み出し、同じものから別のものを生み出すことである」
「読むとは、特に再読するとは、比較すること……」
例えば、私とあなたが映画『勝手にしやがれ』を二人で観たとせよ。
私もあなたもこの映画に非常に感動し、そこから何かを作り出そうと意図したとする。
この時、我々二人が創造するものが小説である場合、その小説は、映画『勝手にしやがれ』に対する二つの解釈としての機能を有する。
当然、私とあなたの執筆した作品は差異化されている。
したがって、『勝手にしやがれ』という映画から、今全く異なる二つの作品が同じ「父」を持って派生したことになる。
比較断章法が「文学」創造の本質とされるのは、この差異化された同じ作品の別の顕れという原理に由来する。
トマス・アクィナスは『神学大全』で以下のように述べている。
「聖書のある箇所に目立たない形で伝えられているものは、必ず別の箇所で明白に表現される」
比較断章法的な思考実験をもう少し繰り返してみよう。
例えば、今ここに『勝手にしやがれ』を観たことのない少年がいるとせよ。
彼はまたいつか観るだろうが、『勝手にしやがれ』を日本版にした別のタイトルの映画は観ていたと仮定する。
この時、少年は原型となる『勝手にしやがれ』を視聴してはいないが、そのディアノイア(意図)にはおそらく触れていると解釈可能である。
よって、我々がまだ観ていない作品のディアノイアが、既に観た作品と連結している可能性は否定できない。
また、別の実験を紹介しよう。
死ぬまで仏教寺院の奥地で暮らし、キリスト教の聖典に一度も触れなかった僧侶がいるとせよ。
この僧侶は、確かに聖書のディスクールには触れていないが、おそらく仏典を通して聖書の真理と本質的に同一のディアノイアには触れている。
よって、この僧侶は聖書にも触れたのだ、と我々は断言できるだろうか?
コンパニョンが述べているのは、レトンの差異が存在するが、ディアノイアにおいて共通する複数の文献が世界中に無数にあるということだ。
それらを幾つかの本質的な原型に還元し、ディアノイアのリストを作成することは可能だろうか?
私がここで主張したいのは、僧侶はレトンにおける聖書や仏典の差異に関わりなく、宗教という一つのディアノイアを学んだのである。
シェイクスピアをこれまで読んだことのない、シェイクスピアのファンがいるかもしれない。
或いは、これを人間の経験論に還元すれば、人生において個々人が体験するディアノイアは、コンテキストにおける微分的差異こそあれ、本質においては同一であるのかもしれない。
「参考リスト」
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