●ワシントン合意とは?
ワシントン合意というのは、1999年9月のIMF(国際通貨基金)の総会で、ヨーロッパの中央銀行15行※で合意された、「金(ゴールド)」の売却と貸し出しに関する協定のことです。このワシントン合意の主たる内容は、次のようなものです。
■欧州の中央銀行15行は、外貨準備には従来どおり「金」を利用する。
■市場に売り手として参加しない。
■決済済みの「金」売却は、今後5年間にわたり、年間400トン以下とする。
■鉱山会社への「金」リースを制限する。
2012年5月14日月曜日
金先物市場の行方 聖書預言の行方/ウェブリブログ
2012年5月5日土曜日
「作者の死」後、現代文学の可能性を探る 〜アントワーヌ・コンパニョン 『文学をめぐる理論と常識』〜 - † VANILLA PLIEST †

Johannes Linder & Jakob Wiechmann
コレージュ・ド・フランスで文学理論を教えるアントワーヌ・コンパニョンは、文学だけでなく芸術を楽しみ、また加担しようとする全ての読者にとって重要な理論家である。
このページでは、彼の「文体」論と、「作者」論の二つについて記録しておく。
(同じ著者のボルヘス論についてのページはこちら)
○ 「文体」論
アリストテレスは『弁論術』の中で、「ある語を他の語で置き換えることが、より高尚な形式を文体に与える」と述べている。
これを受けて、コンパニョンは以下のように述べている。
「一方に、本来の語に密着した、明快ないし低級な文体があり、他方には、偏差と置き換えを活用して、"言語に奇異な特異性を賦与する"エレガントな文体がある」
彼によれば、文体原理とは以下の二つで要約される。
� 偏差(既成の用語、表現からの置き換え)
� 装飾(衣装、化粧、戯れ、ダンス)
この二つはアリストテレス以来の修辞学における基礎である。
つまり、目下ここで文体=装飾のための偏差という定式が成立する。
判り易くいえば、「今日、雨だったんだけどさ、会いに行ったよ」という表現があるとして、この一つの文章をいかに美しく、或いはいかに多様に変換できるか、といった技術と文体は不可分離的である。
文体の本質はこのように定義されるが、アリストテレスは文体を三種類に分けていた。
� スティルス・フミルス(単純な文体)
� スティルス・メディオクリス(節度ある文体)
� スティルス・グラウィス(高尚かつ崇高な文体)
しかし、これはあまりにも曖昧な分類であって、多様な文体にこの三種類では対応できない。
修辞学(レトリック)の伝統は、著者によれば『弁論術』以後途絶えており、それが文体論(スティリスティック)として蘇生したのは19世紀においてである。
文体を装飾性として認識した代表的な理論家にはリファテールがいる。
「文体とは、意味を変質させることなく、言語活動によって伝達される情報に付加される強調(表現上の、感情的な、美学的な)である」リファテール
著者は文体における諸説を様々紹介しているが、結論が重要である。
コンパニョンは以下のようにまとめている。
2012年5月1日火曜日
世界キリスト教情報:2007年10月
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(c)世界キリスト教情報 連絡先E-mail:cjc-skbr />====================================
2007年10月29日(月) 第876信(週刊・総合版)☆☆
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= 目 次 =
▼貧富の差拡大は新しい「奴隷」制、と改革派指導者
▼欧州会議上級職員がアレクシー二世発言に疑念
▼「暴力のない世界」を主題にナポリで異宗教間サミット
▼比司教3人がアロヨ大統領辞任を要請
▼中南米でのエイズ拡大、教会の避妊禁止も一因とUNAIDS
▼米マリブ長老教会、大火で消失、現地での再建決意
▼インドで修道女2人が事故死
▼ドイツ東部で750年前の巨大な教会が台車で移動
▼ポルノ反対運動家が十字架のキリスト像撤去求める
▼キム・レウォン、「日曜日は教会に」条件に撮影契約
▼《情報レムナント》
▼《メディア展望》
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◎貧富の差拡大は新しい「奴隷」制、と改革派指導者
2012年4月29日日曜日
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@Haight & Ashbury ƂGAɂėBPXUONɃqbs[ƂlaꏊBFgfUCEVbvԁBu|WeBu[EwCgEXg[g Positively Haight Street viZF1400 Haight Street,San Francisco ,CA94117jɂ̓JtȌF̍i߂̐ngmԁBTCPfbNƂ̂BʂɃhhȃRX`[EVbvB
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2012年4月25日水曜日
鉄の歴史
鉄の歴史
通常、例えば「数学史」と言えば、「ヨーロッパの数学史」のことを意味します。 これは他の国が現代化の過程の中でヨーロッパの数学を踏襲したからです。 「和算」も数学の歴史の中に入るかもしれませんが、これは別に扱うのが普通です。 現代に影響を及ぼしていないからです。同様に「鉄の歴史」と言えば これは「ヨーロッパの鉄の歴史」となります。以下主にこれについてまとめたものです。
「鉄の歴史」は世界の現代化において色々影響がありますが、 ある程度製造法の変遷などを理解していないと、歴史の理解が困難であろうと思われます。 例えば、英国の産業革命はコークスによる高炉から錬鉄の製造を始めた 1754 年に始まると考えたほうが 自然で、また産業革命を通して、錬鉄の製造が主役であり、鋼の製造は脇役でしかなかった などの事情を理解するには「錬鉄」とはどのようなものであったのかを理解していないと、 そもそも英国における産業革命の姿が目に見えてこないと思われます。 日本語の検索エンジンで「英国の産業革命」を検索すれば、 ものすごく多くの記事が検索できますが、当時の英国の産業を支えた「製鉄」のことには ほとんど記載がありません。だから日本人は何も知らずに「英国の産業革命」を議論していると 言ってよいと思われます。
産業革命における製鉄法に関しては、とりわけヨーロッパには身近に 多くの産業遺跡がありますから、その理解は比較的に容易であろうと 思われます。反面、日本人には雲をつかむような話ですから、 誤解が多々あるのではないかと思われ、 また全体像を理解することもかなり困難となります。 ここでは英語版の Wikipedia から関連する項目を列挙して、 歴史に直接ないしは間接的に関連する内容を部分的に翻訳をして、 理解の助けとしたいと思います。 なお、英語版の Wikipedia では中国の製鉄の歴史に関しても説明を加えているので、 その点も理解することになります。残念なことですが、日本ではほとんど語られていないことばかりです。 日本は製鉄に関してもほとんど中国の影響を受けていない。
製鉄に関して混乱を招く原因の一つに、 「鉄を鍛える」あるいは「鉄を鍛錬する」という日本語があります。 日本古来の「たたら製鉄」ではハンマーを使って鉄をたたく作業を 「鉄を鍛える」あるいは「鉄を鍛錬する」と言いますが、これは単に 不純物を除去する作業です。昔の日本人は作業の意味するところを知らなかったのです。 しかし、以上の事実は日本の文化の中に組み込まれており、 そのため辞書の類がすべて信用できないことになっているという結論になり、 また英和辞書に依存している文書にも基本的な間違いがあることが鮮明となりました。 これはヨーロッパの製鉄法を理解することから明らかとなる事実です。
ヨーロッパの製鉄に関しては最初の 4 つの項目を読めばだいたいのことがわかります。 その中に登場することの詳細が、それに続く項目です。英国の製鉄産業は産業革命に 至って爆発的なものとなります。とはいっても今日の製鉄産業と比べれば余り大したことがありませんが、 ヨーロッパ以外の国と比較するとその違いが顕著であると思われます。しかし、このような違いを 生じるきっかけがヨーロッパ中世にあり、とりわけ 12 世紀ルネッサンス以後に あるようなので、「中世ヨーロッパの技術」も最後につけてあります。 「加工硬化」も追加していますが、これは日本の昔の「包丁」の製造方法が加工硬化によるものであることが わかり、仕組みをある程度理解しているほうが良いと思われたためです。
英国で産業革命が成功した一因がその自由な環境にあると色々な個所で指摘されているので、 清教徒革命のことを調べようとしましたが、英語版の Wikipedia にはこの項目がなく、「三王国戦争」 として扱われていることに気づき、これも付け加えることにしました。製鉄に関しての ヒントはなかったのですが、「三王国戦争」の終了後およそ 100 年を経た後にコールブルックデール で錬鉄の生産が始まり、「社会環境の変化が産業構造の変化に影響を及ぼしている」 と推測することは可能なようです。
なお、以下のページの幾つかはインターネット接続が ADSL 以上でないと表示できません。 グーグルやヤフーの地図をページに張り付けているためです。ステータスバー (ブラウザーの一番下の個所) の 表示を注意してください。インターネットエクスプローラでは地図が完全にダウンロード されるまではフリーズしたような状態になります。ファイア・フォックスの方がはるかに快適です。
- 塊鉄炉 (bloomery)
(最も古くから最も普通に使用されたありふれた製鉄炉、どこの文明にもある。日本は異常な例外) - 錬鉄 (wrought iron)
(塊鉄炉から製造された鉄でスラッグを含む、不純物はほぼスラッグに含まれ残りは純粋な鉄) - 高炉 (blast furnace)
(鉄を溶融するために爆風を吹き込む炉のことで、もともと「背が高い」意味はない。 直接できる鉄は炭素を吸収しすぎた鋳鉄) - 鋼 (steel)
(鋼を作る一番簡単で最も普通な方法は鋳鉄と錬鉄を混ぜて溶かすこと(るつぼ鋼)、 溶かす際にフラックスを入れれば精錬される。 西洋人は鋼の製造に「るつぼ」を使用したが、この単純な鋼の製造方法に気がつかなかった) - トリップ・ハンマー (trip hammer) (ハンマーは製鉄の歴史で重要な役割)
- 杜詩 (Du Shi) (中国で「ふいご」の動力に水車を最初に使った人)
- トロンプ (Trompe) (現代のコンプレッサーの御先祖)
- オスモンド工程 (Osmond process) (銑鉄から錬鉄を生成する工程)
- 精製炉 (finery forge) (銑鉄から錬鉄を生成する工程)
- オアグラウンド鉄 (oreground iron) (質の高いスウェーデンの錬鉄)
- セメント工程 (cementation process, 浸炭工程) (錬鉄から気泡鋼へ)
- るつぼ鋼 (Crucible steel) (気泡鋼を「るつぼ」で溶かす、西洋の「るつぼ鋼」)
- ヘンリー・コート (Henry Cort) (「パドル炉」の発明者)
- ベンジャミン・ハンツマン (Benjamin Huntsman) (「るつぼ鋼」の発明者、製造者)
- 反射炉 (reverberatory furnace)
- 鋳鉄 (cast iron)
- キューポラ (cupola) (鋳鉄を鋳造するための炉)
- パドル工程 (puddling) (銑鉄から錬鉄を生成する工程、パドル炉)
- ベッセマー工程 (Bessemer process) (銑鉄から錬鉄を生成する近代的な工程, 転炉)
- ヘンリー・ベッセマー (Henry Bessemer) (ベッセマー工程を考案した人)
- ラップヒッタン (Lapphyttan) (13 世紀のスウェーデンの高炉)
- ラスキル (Laskill) (リーヴォール修道院の高炉があった場所)
- ウィールドの製鉄産業 (ウィールドの製鉄はローマ帝国の時代からあった)
- ウィリアム・レヴェット (牧師) (ウィールドの大砲産業を作った人)
- コールブルックデール (Coalbrookdale) (産業革命発祥の地)
- ウィルソンタウンの鉄工場 (Wilsontown Ironworks) (熱爆風の使用)
- アビーデール産業村 (Abbeydale Indusctrial Hamlet) (シェフィールドの鋼の歴史)
- 鉄法 (Iron Act) (アメリカ独立戦争の一端となった英国の鉄の貿易に関しての法律)
- 加工硬化 (鉄をハンマーで打てば硬くなる)
- 中世ヨーロッパの技術 (製鉄のみならず色々な技術が登場)
- 三王国戦争 (日本語では「清教徒革命」として知られる史実、より自由な環境)
以上のページを読んでいくうちに気が付いたことを以下に記します。
鉄はどのようにして作られたか ?
鉄は自然界には酸化鉄や硫化鉄の形で存在しますが、 鉄は通常は酸化鉄から製造します。
酸化鉄から鉄を作るには酸素を奪えばよいだけです (還元)。 また自然界の酸化鉄には不純物が含まれ、これを除去する必要があります。 鉄の製造には直接工程と間接工程の 2 つがあり、昔の西洋で 使用されたのは直接工程です。これがどういうものであったのかを 理解しないと全体像が不明となります。
昔の西洋でもともと使用されたのは塊鉄炉 (bloomery) と呼ばれるものです。 ここに鉄鉱石 (赤鉄鉱) を砕いたものと木炭を入れて加熱します。 巧妙な点は鉄の溶融温度まで上げずに、その手前の温度を維持することです。 炉は密閉状態なので、これで一酸化炭素が発生し、一酸化炭素は酸化鉄の 酸素を奪い、これで鉄ができます。
一方、維持されている温度では鉄鉱石の中の不純物が流れ落ちます。 不純物がすべて流れ落ちてくれれば、これで鉄の誕生ですが、 半溶融状態となった鉄はスポンジ状のかたまりとなり、相互にくっつき、 その隙間にスラッグ (かなくそ) がかなり残ります。 できあがったものは花のような状態となり bloom (花) と呼ばれます。
!doctype>2012年4月24日火曜日
仏教講義、1.釈尊の根本的教え (5)慈悲喜捨の冥想 (No5)
ヒンズー教、イスラム教、キリスト教をはじめ、すべての宗教にたった一つの共通テーマがあります。
共通テーマというかどの宗教も同等に打ちだしているメッセージと言ったらいいか―それは「愛」という言葉です。 例えばヒンズー教であれば梵(ブラフマー)から出て梵に帰ることを教えますが、梵に帰るための人間の仕事は愛を実践することと説きます。 また、キリスト教とくれば言わずとも分かるように愛の心がその教えの中心となっています。
仏教でも、この愛という行為ないし言葉は否定しませんし、大切なものと教えるのです。
この愛という感情を、仏教ではどう考えるか――。
たいていの宗教では病気治しを掲げることが多いようですが、病気治しをよく観察しておりますと、病気を治してほし い人も治そうとする側もやさしい気持がある人ほど治っていく率は高いようです。 子供が病気になった場合、母親は自分の身命を投げうっても何とか病気を治してあげたいと一心に祈ります。 このときの母親はもう教祖以上の慈悲そのものの存在です。
このように、私たちの心がきれいになり、自分以外の生命あるものすべてに対してやさしい心が作れるようになれば、自分の痛みだけではなく、他人の心の痛みまでをも自分の痛みとおなじように感じられるようになり、その心が自分の病気も他人の病気も治すことが出来るようになっていくのだ、と教えるのが仏教です。
このやさしい感情こそ人間だれにも必要な重要な"心"なのです。
2012年4月22日日曜日
Eジャーナル 障害と能力 第1章 | プロップ・ステーション
障害者の権利を守るアメリカ社会とその法律
U.S. Society and Laws Protect the Rights of Persons with Disabilities
Peter Blank
P5 - 8
大学の教授であるPeter Blank氏は、シラキュース大学Burton Blatt研究所の所長である。彼はADA法の草案作成及び法案通過決議の過程に携わり、アメリカ議会で法案の重要性を証言し、また最高裁でADA法関連の裁判事例について抗弁してきた。彼はこのテーマについて沢山の執筆や講義を行ってきた。
アメリカにおいて、障害に関する理解、定義、態度は月日と共に変わりつつある。歴史的には、障害とは人々が「普通」の生活の妨げとなる欠陥として考えられてきた。これは身体的または知的な問題で、生まれたときから一生付き合っていかなくてはならないものもあれば、交通事故や病気などによって人生の途中で引き起こされるものもある。また人々の態度も、障害者を保護したいと考えたり、障害やその家族を恥ずかしい存在と考えたりと様々であった。多くの場合、障害者は家や施設に隔離され、一般社会とはほとんど交流を持たなかった。さらに、障害は一生続くもので、悪化の一途をたどるものとして考えられ、今日のように、適切な治療や便宜によって改善されるものとして扱われてこなかった。
アメリカにおいて、障害について早期の法律上の定義は市民戦争から帰還した沢山の負傷兵のために制定された。市民戦争年金法によると、障害者となった連合軍の退役軍人たちは「作業労働者としての労働が可能かどうか」を基準として年金の交付が決められていた。この制度は、障害を基本的に社会への平等な参加、すなわち自立した生活の営みを妨げる状態として定義するものであった。しかし、全ての障害が平等に扱われるわけではなく、知的障害、伝染病等に対しては、支援する価値がないものとして考えられ、これらの障害を持つ人々は差別の対象になった。
それから百年が経過し、1960年代になると、社会保障制度の対象を貧困層や、これらの障害を持つ人々にまで拡大することが求められた。しかし、これらのプログラムは、障害を持たない人々の社会へ、障害者が適応する能力に着目するという旧来の考え方に基づいてのものだった。この考え方の中では、一般社会に適応できない人々を差別し、人々が保障やサービスを受けるに値するかどうかの価値判断を依然として行い続けてきた。
態度の変化
Changing in Attitude
その数年後、1970年代になると、障害者は社会の中の少数派グループとして見られるようになった。つまり、社会の中で平等を訴える他の少数派グループと同様に障害者も市民権をもつグループとして保護されるべきだと考える動きが出てきた。そしてこれは、障害に対しての考え方、またインクルージョン(多様性を受け入れる社会)、権利付与、経済的自立といった考え方の基盤となった。
この新しい考え方の提唱者は、この障害者グループの権利を定めた新しい法律が必要だと考えた。そしてこの考え方は、障害者に、選挙へのアクセス、飛行機による移動、教育、住居を自己の選択において決める権利を保障する法律の条文の成立を後押しした。これらの権利の条文が集約されたものがADA法である。そして、このADA法は、これらの問題や各状況について議論するうえでの法的な言語となり、人々の障害に対する認識の変化を促した。
ADA法の到来により、人々は建造物が障害者にとってアクセス可能かどうかについて考え始めるようになっただけでなく、障害を持つ人々が他の人々と同様に生活の全ての側面において十分に参加できる方法についても考えるようになった。ADA法は学校、ビジネス、地域や公共施設に、また全ての政府機関に、そして健康や社会サービスといった幅広い分野において意識の変化をもたらした。
この新しい意識によって実践されたことの一つに、沢山の用語の変化がある。例えば、"a disabled person(障害者)"から、"a person with disability(障害を持つ人)と改められた。それから、「普通」という画一的な基準よりも、一人一人の異なった能力について議論されるようになった。さらに、学生の"learning disabilities(学習障害)"は、"learning difference(学び方の違い)"と呼ばれるようになった。同時に、障害の定義は、学習方法、情報処理方法の違い、身体的な制限、主要な生活の活動の妨げとなるその他のコンディションまで拡大された。法律の草案作成にはじまり、法案の可決に至るまで沢山の人々が何年もの時間を費やした。ADA法の序文では、障害者の「機会均等、社会への完全参加、自立した生活、経済的自立」を国家目標として定めている。ジョージ H. W. ブッシュ元大統領が、1990年7月に同法に調印したとき、彼はこの法律を「アメリカ人であることの恩恵は、他者の権利を保障することによって得られる。従って、この法律は障害を持つ人びとだけでなく、アメリカ国民全員にとって画期的で革新的なものだ。」と言っている。
この法律の原文は、タイトルと呼ばれる項目に分かれている。それぞれのタイトルには番号が振られ、それぞれ特定の問題や対象者、またグループにおける保護や権利について述べている。
職場に適応されるADA法
The ADA at Work
ADA法タイトルIはほとんどの民間の雇用者に対して、障害を持つ人への雇用上の差別を禁じたものである。タイトルIIは州のサービス及び地域の役所における差別を扱っている。タイトルIIIは、ホテル、レストラン、ショッピングセンター等、公衆のための宿泊その他の施設の利用についての差別を取り扱う。そしてタイトルIVでは、通信設備の提供者に、障害を持つ人が利用できるサービスの提供を義務付けている。私は幸運にも、権利運動の最前線に活躍する人々と共に、擁護活動を行ってきた。ここに、社会への公平な参加に向けて積極的に活動した人々についてのストーリーをご紹介したい。
私は1999年、ヴィスコンシンのとある収容施設の作業所でDon P.氏と彼の家族と面会した。その作業所は、身体、知的障害を持つ人達が、仕事のスキルを身につけ、経験を積むための助けとなる素晴らしい環境を提供していた。Don氏は知的障害をもった50代前半の人物で、彼はレストランの掃除夫として働いていた。彼の仕事は素晴らしく、同僚は彼と一緒に働くのを楽しんでいた。ある日、広域のマネージャーがそのレストランを訪れ、Donが働いているのを見て、地域の監督に「この種の人間(知的障害をもつ人達)」を雇っていることを批判し、Donを解雇するよう求めた。地域の監督が彼の解雇を拒否すると、そのマネージャーはレストランに再び引き返し、直接Donを解雇した。これに対する抗議として、地域の監督と他のスタッフ達は辞職した。ADA法タイトルIに基づく審判で、被告側は、Donがその仕事の要求水準を満たしておらず、会社は彼を差別したわけではないと主張した。私はそこで、Donのような人が雇用の場において経験している偏見について証言した。Donの仕事には、何の落ち度があったわけでもなく、これはむしろ雇用者側の過ちだった。陪審は、レストラン側がADA法を犯したとし、Donに損害補償に加えて7万ドルの支払いを命じた。そして、障害に対する差別が今後あってはならないことを知らしめるため、陪審はさらに1,300万ドルの損害賠償を命じた。これはADA法による判決のうち、過去最高の賠償金額だった。